M2院生として修士論文執筆中の2005年10月末。激震が起こります。
研究科長の新川先生、そして今里先生が中心となって文科省「魅力ある大学院イニシアティブ」に応募されていた「ソーシャル・イノベーション研究コースの新設」がなんと採択されたのです。
「地域社会に生起する具体的な公共問題を解決できる実践能力を兼ね備えた行動型研究者の育成」を目的とし、キャンパス外に京町家や農場を「社会実験施設」として設け、そこで新しい実践型の政策研究を展開していこうという野心的な取り組みでした。そして2年間にわたって潤沢な資金がおりてきます。
ここにそのときの「開設にあたって」の文章があります。
http://sosei-si.doshisha.ac.jp/mission/
そして、なんと半年後のコース開設に向けての諸準備を、今里ゼミ、新川ゼミを中心になんとわれわれ院生たちも戦力となって手伝うことになりました。
・賃貸可能な「京町家」や「田畑・農家」を捜すこと。
・コース説明会の開催。
・「ソーシャル・イノベーション研究コース」受験者の確保
・3月に食をテーマにした国際シンポジウムの開催。
などです。11月には何度もミーティングを行って、具体的な諸準備にとりかかりました。(M2はみんな修士論文を抱えながらだったのですが、、、、、)
また、その一方で私の方には、今里先生から「ソーシャル・イノベーション研究コースの新設にあたって3名、任期付の教員(5年任期)を採用するので、その1名として加わってほしい」旨の連絡をうけたのです。(続)
社会人大学院生の話の続き
というわけで「自然学校の発展と課題」という修士論文を書いたわけですが
社会人院生が「論文を書く」ということは、いまさらにして思いますが大変なことなんだなあと思います。
仕事をしながらなので、論文のことばっかり考えているわけにはいかいし。
気分を「論文執筆モード」に切り替えて、没頭するためにはちょっとまとまった時間がいるんですよね。
夕食後の数時間では、メールの返事とか書いているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいます。
論文を書くための「時間」ではなく、論文に没頭できる「日」をつくって、集中しないと、なかなか進まないんです。
しかし私自身はサラリーマンではなくフリーで仕事をしていたので、そのへんはうまく研究のことに充てる日や時間をつくり出せたのではと思います。
執筆の場所も、院生共同研究室には自分のデスクもあったし、自宅近くの某大学図書館などもせっせと活用させていただきました。
ありがたいことでした。
それにしても、締め切り(当時の総合政策科学研究科の提出締め切りは1月12日ごろ)は確実に迫ってます。
自然学校関係では毎年11月中旬に「日本環境教育フォーラム・清里ミーティング」がありますから、ここが最後の関係者ヒアリングのチャンスでしたが
そのへんの話もなんとか盛り込むことができました。
指導教員の今里先生からは「クリスマスごろには書き上げて見せてくださいね」と言われていましたが、なんとか間に合いました。
その後いただいたコメントにしたがってまた改稿。
提出前は2日間かけて最後のチェックを行いました。誤字をまだまだ発見、そして注のつけ方についての不統一がゾロゾロと出てきました。
プリントアウトしてレバーファイルに綴じてから参考文献に重複を発見したりもしました。ヤバいヤバい!
そんなこんなで締め切りまでに無事提出することができました。
(後になってこんどは院生を指導する立場になるわけですが、こんなにスムーズに運ぶことはまずありえないです。)
論文を提出したあとも、ゆっくりはできません。つづいて学位審査公聴会の準備へと続きます。
さて、いまこの修士論文「自然学校の発展と課題」を読み返してみると、「なっていない」というか、ダメダメだらけです。
「ゴール」ではなく、「通過点」だということがあらためてわかります。
そして、論文は自分で書いてみて初めてどうやって書くのかがわかるんですよね。
論文の構成や形式のこと、文体のこと、文献の探し方、引用の仕方、それからMs-Wordの使い方(というか飼い慣らし方?)などなど。
前期課程修了で修士号をとり、研究生活を終えてしまう方も多いのですが、もったいないと思います。
「論文を書く」ことを通じて「論文を書く」ということの意味や方法がわかったわけですから、ぜひこれは「通過点」として、次の研究へと進んでほしいものですね。
今里先生の「ソーシャル・イノベーション研究コース」の「魅力ある大学院イニシアティブ」応募の話は、ちらっと聞いていたかもしれませんでしたが、まさか後々に自分に関わってくる話とは考えも及ばすでした。一大学院生としては自分の目の前の研究、修士論文のことを進めないといけません。
入学時は漠然と、自分のやってきた環境教育関係の仕事、国や自治体と進めてきた環境意識の普及啓発、人づくり等の仕事などのことを研究論文としてまとめたい位の漠然とした考えしかありませんでした。(「そんな簡単なことじゃない」というのは今更思います。)
今里先生の講義「公共政策論ー現代社会起業論」や公共の哲学を取り扱った「公共性論」、「海外政策事情−市民社会とガバナンス−」での英書購読(John Ehrenberg著Civil Society: The Critical History of an Idea『市民社会—苦難の歴史を歩んだ思想』)、そしてゼミでの発表や議論を通じて「行政なんぞに頼ってばかりではなく、これからは市民が実力をつけて、社会の問題解決の主役になっていかんとあかん」というマインドを叩き込まれることになります。
というわけで、自分のやってきたこと、つながってきた人々やテーマを考えて、「自然学校」のことを取り上げて修士論文を書こうと考えました。
「自然学校」とは、「自然の中で教育活動を展開する団体や拠点」、「自然体験学習を主とした学び舎」で、1980年代から日本各地につくられはじめていました。
関係者のネットワークもあり、私自身も京都からその末席に連なっていましたので、北海道から九州、沖縄までたくさんの自然学校経営者と出会い、また一緒に仕事をしてきたのでした。ほんとうにユニークで個性的な方々ばかり(自分もそう言われていますが)で、こういう繋がりから拓いていく新しい教育のかたち、新しい仕事のかたち、そして新しい地域づくりのことを論文に書いていきたいと思ったわけです。
そして「自然学校」のことを書いている研究論文はまだほとんど見当たらないことも分かりました。「自然体験学習」のもつ意味や具体的な方法論についての研究は既に教育学や身体運動学の領域からすすめられてきていて、環境教育学会や野外教育学会の方面で成果がみられるのですが、「自然学校」は日本のなかでどのように生まれ、発展してきたのか、社会にどのように役に立つのかという政策モデルとしての研究はほとんどされてこなかった訳です。
そして、ありがたいことに私はこの研究を進める上でのポテンシャルが高い。
仕事場の未整理資料の山を掘り返しさえすれば、このネットワーク関係の資料(報告書、ニュースレター等)が20年分位出てくるし、主要な関係者へのヒアリングの約束はメールや携帯電話一本だけで依頼とアポイントメントが完了する。
わざわざ会いに行かなくても、一緒にやる仕事や出張のついでに60分の時間をいただければヒアリングが出来たりもするわけです。これはオヤジ社会人大学生の大きな強みでした。(続)
院生生活の2年目のことです。今里ゼミも若い院生+おじさん、おばさんで和気藹々楽しくゼミでの発表、議論、飲み会等やっておりました。
大学近くの小さな町家をシェアハウスとしている院生がいて、そこに今里先生が一室を借りられたことが次の展開につながっていきます。
今里先生は当時、博多と京都の往復生活で、京都での宿泊場所をそこに設けられたわけでした。この町家1Fのお座敷部分は共有スペースで、2室をつなげると10数名位の宴会ができる位の広さがありました。先生の料理の腕はプロ級のもので、台所に立たれると、マジックのようにいろんなお料理が出来上がっていきます。
そんなわけで毎週のように、ゼミ生+αで先生の手料理での宴会の連続でした。
そしてこの町家は「江湖亭」と名付けられました。(「江湖ーこうこ」とは古い中国の言葉で、人々が寄り集まって世の中のことをあれこれ議論する場のことです。)
ここから大学キャンパスの外に京町家を拠点とした政策の実践研究の場を設け、実践志向の研究者を育成していこうという発想が生まれてきます。そして当時の研究科長の新川達郎先生と今里先生が諮って文科省の「魅力ある大学院教育イニシアティブ」に「ソーシャル・イノベーション研究コースの新設」として応募されることになったわけです。(続)
またまた社会人大学院生の話の続き。
社会人大学院生として博士前期課程の2年間、またその後5年間教員としてもお世話になる今里 滋先生には2004年4月の大学院入学式の後の新入生歓迎会で初めてお目にかかりました。前年度2003年の10月に同志社に着任されたのですが、それまでは九州大学大学院法学研究科の行政学/地方自治の先生でした。
同志社に来られたのには訳があります。海岸を埋め立てて造る福岡新空港計画をストップさせるため、大学教官の職を辞して2003年4月の福岡県知事選挙に出馬されたのでした。無所属の手作り選挙戦ながら現職の麻生知事を追いつめ、選挙運動期間中に新空港計画の白紙化が表明されて争点から外れたため惜しくも落選されましたが、ふるさとの海を守りたいという当初の目的は達成されたわけです。
そして、その落選のおかげで「生きて関門海峡を渡るとは思っていなかった」という「つもり」を超えて、同志社大から招かれて着任されておられたわけです。
新入生歓迎会で、さっそくいろんな話を伺いました。今里先生は行政学の大先生でありながら、お住まいの福岡市箱崎地区のまちづくりのリーダーとして、NPOの経営にも関わられており、とりわけ地産地消レストラン、都市農村交流拠点、高齢者のIT教室、そして市民シアターなど営利と非営利の好循環を生み出すコミュニティビジネスの実践にも注力されておられたのです。
というわけで、入学式の日に今里先生のゼミ生となることを即決したのです。先生にもよろこんでお引き受けいただけました。今里先生は前年度途中からの着任でしたので、同志社でのゼミとしては一期生ということになります。
2004年当時の同志社大大学大学院総合政策科学研究科は、学部をもたない独立大学院でした。(現在は、後からできた学部「政策学部」と組織統合をして、政策学部と大学院総合政策科学研究科は一体となっています。とはいえ、いまでも独立大学院としての性格も色濃く残しています)
社会人大学院生が学びやすいように、講義や演習は平日は夕方から夜にかけて(5限:16:45-18:15 6限:18:25-19:55 7限:20:05-21:35)の時間帯に組まれ、また土曜日にも時間割が組まれました。
大学院生用の共同研究室もあり、大学に自分用の机や書棚を確保することもできました。学部生のときと違って大学に自分の居場所があるというのはほんとうにうれしかったです。
会社勤務や経営者の方、大学職員、公務員の方なども居ましたし、もちろん若い院生も居ます。机を並べて勉強しましたし、一緒に飲みに行ったりとなかなか楽しい学生生活でした。
そして自分で学費を払っているというのも大きい。「サボりたい」なんて全く思わないし、なるべくたくさん勉強したい。仕事の時間を削ってでも大学に来ているので、すこしの時間も無駄にしたくないと思いました。
なぜ40歳になってから大学院に行ったのか。
(ちなみにいま48歳ですが)
「環境共育事務所カラーズ」の自営の仕事で駆け抜けてきた30代でした。
90年代前半から、21世紀への変わり目も体験しました。
10年周期で、節目をつくりたくなるというのもあります。40代はまた次のチャレンジをしたいなと。
いくつかの大学から非常勤講師に呼ばれ、大学生に「環境教育」を教える立場になったことも大きいです。
「西村さんって、どうやって環境教育を学ばれたのですか?」80年代や90年代当時にはそんなことが学べる大学などはごくわずかだったし、仕事や学会を通じて新しい知識に出会ったり、自分自身の実践から少し語れるようになったりでした。
そうやって、自分に身につけてきたものをなにかきちんとまとめたい、世間様におかえししたい。というのもありました。
YMCA勤務時代に同僚だった山本 克彦さんが、一足先に社会人大学院生をやっていたのも大きいな。かれは龍谷大学大学院の社会福祉で修論を書いていて、そこから彼も大学教員への道を歩み始めていました。
まあ、そんないろんなことがあって大学院進学を検討し始めていました。母校の同志社大学では独立大学院の「総合政策科学研究科」が社会人を積極的に受け入れているということがわかりました。
滋賀大学大学院(大津市)では環境教育のコースがありました。こちらも検討しましたが、通いやすさや、社会人推薦入試(筆記試験免除)の制度、「政策」への魅力や関心もあって、同志社大学大学院総合政策科学研究科を受験することにしたのです。
1986年に大学(同志社大学経済学部)を卒業しましたが、はっきりいって単位を揃えて出ただけでした。大学よりもYMCAの活動に没頭していたし、経済学よりも面白いことがいっぱいあったし。
大学院なんて考えもしなかったし、もちろん勧められもしなかったし。
単位もぎりぎり。
でもその後、YMCAに就職して7年、そして退職して1993年から環境教育で食べていくことにして30代を過ごした訳ですが、40代に入って無性に勉強したくなって、2004年から社会人大学院生になりました。
そこでの恩師となる 今里 滋先生との出会いから大学教員への道が開かれ、その後に続いてきています。大学生時代は「先生業」なんて考えもしなかったのですがね。
ご縁をいただいて、西村仁志は4月より広島修道大学人間環境学部に教員として着任することになりました。西村研究室は広島修道大学西村研究室として、開設の運びとなります。
環境共育事務所カラーズは個人事業ですので、京都および広島において、従来通り活動を行います。
引き続き今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
毎年この時期にやってくる思いがあります。
「暖かい春は待ち遠しいのだけれども、しばらくは冬のままでいてほしい。」という気持ちです。
それは何故かというと、
・春になると、別れがある。(卒業、就職、退職、転居、…)
・春になると、現実(これまで仕込んできたいろんな結果、成果)と向きあわねばならない。
・冬のレジャーをもうすこし楽しみたい。(雪合戦とか、雪だるまづくり、そしてウインタースポーツを含め)
というようなことです。
みなさんはどんな思いで「春」を迎えられるのでしょうか。
オリックス不動産株式会社が京都に内陸型の水族館をつくろうとしています。
京都のみなさん。それ以外の京都を愛する皆さんも。私は「京都に水族館はいりません」と(できれば)Twitterに毎日書きます。賛同してくださる方はご一緒に。
私は京都で生まれ育ちました。子どものころは東山の麓が遊び場でした。そこでの体験や人々との出会いから「環境共育」を仕事にすることし、16年が経ちました。
「水族館」の建設予定地になっている「梅小路公園」は1994年「全国都市緑化フェア」の会場として整備され、その後都市公園として開園しました。西の端にこどものプレイパークの一角があるのですが、「全国都市緑化フェア」期間中の市民ボランティアのマネジメントが私の担当業務でした。毎日梅小路に出勤してました。懐かしい場所です。この「全国都市緑化フェア」のスタッフとして参加していたときのこと。大雨が降ると地面に水たまりができて水の引きが悪いのです。あのあたりは地下水位が高く、昔は「セリ」の栽培をする芹田がたくさんあったという話を関係者から聞きました。そんな地下水の豊富な土地だから、大量の水を必要とする蒸気機関車の車庫があそこにつくられたという話もあわせてききました。
こうしてその土地の自然史と人間の持続可能な利用について学び、未来を創るのがほんとうの「環境教育」です。
この水族館の計画には「子どもたちへの環境教育」という文章があります。
大量の電気を使用した人工海水の水槽で、遠い海から魚類や海のほ乳類を捕まえて運んでくるのです。まともな環境教育者はそんなことは決して考えないです。海の環境教育は海でやります。
そして人工海水は梅小路の豊富な地下水に塩をまぜて作ろうということでしょうか。使用した人工海水はどう処理するのでしょう。鴨川に流すのですか。いずれにせよ大量のエネルギーを投入しなければいけない話です。
こんなものをわざわざつくって運営すること自体が環境に悪いし、そして単なる「思いつき」で「環境教育」などど計画に書き入れていることに憤りを感じます。
アメリカ・カリフォルニアの「モントレー湾水族館」は好きで2回行きました。ジャイアントケルプの繁るモントレー湾に面して、水族館の屋外デッキからは海面に浮かぶラッコの姿が見えます。海を背にして、解説員によるプログラムが行われていました。梅小路に水族館ができたら、東寺の五重塔と新幹線が見えるでしょう。ここで解説員は何を語るのでしょう。あるいは窓やデッキ、テラスのない建物で外界と完全に遮断するかでしょうね。
それから「海が無いから水族館が必要なのだ」という理屈があるそうです。これは「京都には熱帯雨林がないから人工熱帯雨林館を」、「京都には氷河がないから人工氷河体験館を」、「京都には砂漠がないから人工砂漠体験館を」、「京都にはロケット発射場がないからロケット発射場を」、「京都には土星がないから…」、「京都には銀河系がないから…」、「京都にはタイガーウッズがいないから人工タイガーウッズを」、きりがありませんね。水族館と一緒に「オリックス不動産」が全部引き受けて、どうぞ京都市民を楽しませていただければと思います。
さいごに、都市公園の歴史は英国のように王様から市民に下されたもの、ニューヨークのセントラルパークのように市議会での決定を経て作られたものなど様々ですが、19世紀の息苦しい都市化の進行のなかで人間らしく生きたいと願う市民が獲得した民主主義の成果そのものです。
あの広々とした梅小路公園の一角をコンクリートの箱モノが占有するのは、市民が獲得した民主主義の成果の否定。都市のなかでも自然と共にあって人間らしく生きたいと願う市民の否定に他なりません。それは愚挙や蛮行としか言いようがありません。
計画は即刻破棄し、外来の関係者の方々は京都を去ってください。市政関係者は市民の気持ちに向き合い、自分の人生でなすべきこと、してはいけないことをよく考えてください。
環境共育事務所カラーズ 代表 西村仁志
(この文章は書き換えアップデートすることがあります。)
▼カラーズにしむらです。
▼中国四川に引き続いて、こんどは宮城・岩手での地震が起こりました。震源近くの栗駒
山耕英地区には、私の長年の「自然学校」の仲間、佐々木豊志さんが経営する「くりこま
高原自然学校」があり、大きな被害をうけました。各地での仕事やプロジェクトをご一緒
したり、また私の研究論文にも自然学校の実践が「持続可能な地域づくり」と「青少年の
自立支援」につながる事例として紹介させていただいています。(「同志社政策科学研
究」9巻2号)
「くりこま高原自然学校」
「NPO法人くりこま高原・地球の暮らしと自然教育研究所」
▼佐々木さんが昨年4月に京都に来られたときには大学院生と一緒に懇談の機会をもち、
また美山で藤原誉さんが経営する自然学校「田歌舎」へのエクスカーションを行って、西
村研究室にも来ていただきました。実は来月7月に、西村M1ゼミのゲストスピーカーに
来ていただくことも決めていたのでした。
▼今回死傷者が出て大きな被害のあった「駒の湯温泉」は自然学校からほど近く、クルマ
で5分ほどのところで、以前にくりこまにお邪魔したときには佐々木さんのご案内で一緒
に入湯しに行きました。木の香りのあふれる、こじんまりとした静かで美しい温泉宿でし
た。くりこま高原自然学校とは地域の「結い」の精神で助け合う関係でした。(そのこと
も論文に書いています。)亡くなられた方々のご冥福をお祈りしております。(亡くなら
れた駒の湯温泉経営者家族の菅原さん、観光コンサルタントの麦屋さんや、鉄道博物館の
岸さんは直接は存じ上げませんが、それぞれ「知人の知人」の関係になり、他人事とは思
えません。)
▼さて「くりこま高原自然学校」では、滞在型の自然学校事業「耕英寮」を行っていて、
地元の学校への山村留学、不登校の子どもの受け入れ、ひきこもりの青年達の受け入れ事
業「若者自立塾」、などスタッフとあわせ16名が共同生活をしていました。幸い人的被
害はなかったのですが、建物や浄化槽など施設に被害が出ていて、また電気も止まり、道
路も寸断していることから、佐々木さんはじめスタッフ4名を残してヘリコプターで麓の
街まで下山した様子です。
▼なにせ自然学校ですから百戦錬磨のアウトドアズマン達で、湧き水と大量の薪があり、
当面の生活は大丈夫と思いますし、佐々木さんは阪神大震災の折には神戸にも真っ先に駆
けつけられましたので、「くりこま高原自然学校」は耕英地区の他の住民の方々への支援
や地域全体の復興の中核を担っていくことになると思います。
▼余震も続く中、子ども達の夏休みシーズンに向けて、多数の事業が予定されていますの
で、一刻もはやい復旧を祈るばかりです。日本の自然学校関係者からは見舞金支援の動き
を始めようとしていますが、口座開設に時間がかかっています。
以下、見舞金のお願いです。
読者の皆様にはとりいそぎ、私のところで預からせていただき、責任をもってくりこまの
ほうに届けたいと思います。
郵便振替番号01030-8-58530「環境共育事務所カラーズ」
通信欄に「くりこま高原自然学校支援」と明記してください。
今後、皆様には何かと協力をお願いすることになるかもしれませんが、ご理解の程、どう
ぞよろしくお願いいたします。
"Colors of Nature"メールマガジン発行人 西村仁志
▼お久しぶりです。大きく発行間隔が空いてしまい申し訳ありません。これが社会人学生のつらいところで、期末レポート試験の期限が次々とあるなかで、それにプラスして仕事関係の企画書書きも2本ばかりあって、行く先々でノートパソコンがフル稼働状態でした。この連休も土・日は出張先で講座の進行役。受講者が「企画づくり」に取り組んでいるのを横目に自分は別の文章を書いていました。19日祝日も次の企画書にとりかかり、連休明けの今日は役所にプレゼン書類を提出。大学院事務室にレポートを提出して、京都駅から電車で出張先の金沢に向かっています。自分のレポートを書き終わったら、こんどは自分が非常勤で受け持ってる大学の授業のレポート採点と成績提出が待っています。当分の間、全く休めそうにありません。
▼そうそう祇園祭も巡行が終わってしまいましたね。今年は大学院の指導教授(九州の方なので初めての祇園祭体験)と同期学生たちと一緒に宵山を観にいきました。気がついたら自分がツアー引率&ガイド役(インタープリター)になっていまして、各町の鉾や山の装飾品のウンチクを語ったりしておりました。
イラクで拘束されておられた人たちが解放され帰国されました。まずはほっと一息ですが、帰国するまでにどれだけイジめられたんやろうと思うほどガックリきておられるのが見ていて可哀想です。「国に迷惑をかけて」みたいなことを政府の人間が言う、あるいは態度で示す。そして読売、産経、日経が社説で書く。おそろしい話です。原因を「3人の無謀な行動」ということにして、おしまいにしようという魂胆が見え見えです。「日本人を誘拐して日本政府に要求をつきつける」という図式はべつにイラクでなくても、どこの国ででも起こりうる話なのに。
ここ数日出てきた「自己責任」論やら、救出にかかった費用は請求するだとか、民間人は渡航禁止にすべきだとかいう話が出ています。一方で何百億円もかけて自衛隊を派遣して水を配る位の活動しかしていない。東京発の話はほとんど茶番みたいな話です。そのことによって民間人が危険な状況に陥っているのですから、これこそ本末転倒な議論だと思います。
「言われなくてもやる。言われてもやらない。」のが市民活動の本質です。また「危険であるのは承知のうえで、現場で何が起こっているかを伝える。」というのがジャーナリズムの本質でもあるでしょう。それに対して国が制限をかける、また新聞社までもがそういう論に乗っかる。これこそ危険なことだろうと思います。
新緑が見事な季節です。まちなかで白いハナミズキの花が咲いているのをみると、ちょうどいまの時期からヨセミテ渓谷で咲き乱れる同種のDOGWOODの花を想っています。ここではほんとはこんな話から始めたいのに、どうしてもいま言っておかなければということを書いてしまいました。
1987年、当時私が20代はじめのころYMCAの職員として滋賀県で小学生の野外活動/自然体験のクラブをはじめたことが、「環境教育」と出会うきっかけです。月1回、琵琶湖や周辺の山々、川などへ子どもたちと出かけ、自然のなかでの仲間との体験を通じて、こどもたちの成長を願う活動でした。
自分が行っている活動を「環境教育」ということからとらえなおしてみるとどうなっているのか、何をめざして活動していけばいいのかということを考えるようになりました。子供たちが地元の滋賀の自然と多様なかかわりを持ちながら、それを栄養素として成長していくことの大切さについても気づかされました。一方でこの地域には開発の波も押し寄せてきており、子供たちと一緒に手づかみで魚をつかんで遊んだ川も、翌年行ってみるとコンクリート護岸に変貌していたというような悲しい現実とも向き合いました。このような体験の場をつくっていくことは将来もっと重要になっていくという予感がしました。
思い切って組織を離れて自分の力を「環境教育」に全力投球してみようと思ったのが「リオデジャネイロ地球サミット」の明くる年1993年、世の中で「環境」の重要性がしだいに認識されるようになったころでした。
独立開業したとはいえ、当時実績もネットワークも乏しかった私には「時間」だけが資本でした。時間をかけて京都の自宅近くのフィールドを歩き、さまざまなところに顔を出して人に会うことが「投資」だったのです。なかでも自宅近くの散歩はすばらしいものでした。その季節に彩られた「自然の色」が日々かわり続けていく様子が,自分にはとても新鮮でした。勤め人のころは足元の自然の営みさえもすっかり見落としていたのでした。こんな体験がそれまでの自分と訣別して、新しい生き方を歩む決意をもたらしてくれました。
その後何年かを経て「環境共育事務所カラーズ」の仕事は自然体験から、エコツアー、まちづくり、市民参加、ワークショップ、そして指導者の育成へとひろがって行きました。いつまでたっても「個人商店型」のスタイルは変わりませんが、仕事を通じて与えられる社会的な役割と責任はずいぶんと大きくなってきました。それはこの社会のなかで「環境教育」や「体験を通じての学び」、「市民参加」の重要性がしだいに大きくなってきたことと比例しています。
環境教育は次の時代の新しい生き方を示し、人々に参加と行動を促しています。この本を手に取られたみなさんもどうかそれぞれの地域や学校で新しい一歩を踏み出してください。京都より応援しています。
(この文章は「つながりひろがれ環境学習—こころのエコロジー・ワークショップ2」小河原孝生編・小野三津子著/ぎょうせい 2003.7.25 に寄稿したものです。)

▼イラクで3人の日本人が武装グループに拘束されています。直接彼らのことは存じ上げませんがニュースが伝わるにつれ、人質となっている今井さんや高遠さんは草の根市民運動のネットワークを通じて、知人の知人くらいの関係だということもわかってきました。
▼彼らはイラクの草の根の人たちを支援するという尊い志をもって、危険なイラクに入国しましたが、武装グループはそのことよりもアメリカをはじめとする連合軍の指揮系統下に入って軍隊を派遣している日本という国の人間であるということを重視しています。
▼派遣前にも書きましたが、そもそも「イラクに自衛隊を派遣する」という政策自体が誤りなのです。そうしたことで、かえってわたしたち日本国民の安全が脅かされることになっていることに小泉政権は気づくべきです。
▼戦争を始めたブッシュも、もう事態をコントロールできなくなっています。イラク国内に、もはや「非戦闘状態」の場所はありません。小泉さん、もしアメリカに対してメンツが必要なら「サマワが戦闘地域になったので、国民との約束通り自衛隊を引き上げます。」と言えばいいでしょう。いま自衛隊はすでに復興支援の活動を遂行できる状態になっていないのです。
▼すみやかに政策転換をすべきです。これは拘束されている3人のためだけでなく、わたしたち日本国民の安全を保障するため。そしてイラクに派遣されている自衛隊員の生命を守るためです。これはテロに屈したことにはなりません。
▼今夜のテレビ朝日の「報道ステーション」コメンテーターに出ていた東京大学教授の藤原帰一さん「ブッシュも小泉も死なない。死ぬのは現場にいる人間です。」(西村仁志)
★関連情報(こちらもぜひお読みください)
池澤夏樹メールマガジン「パンドラの時代」008号
http://www.impala.jp/pandora/index.html
京都大学の近く、京都市左京区北白川で生まれ育ち、いまも家族でそこに住んでいる。父祖の代からなのでいわば「先住民」であるのだが、ここは京都の「洛中」ではなく「旧白川村」であり、この地は比叡山から大文字山にかけての東山の山々を挟んで近江の国とお隣同士の関係である。そして「山中越え」という峠道で古くから大津と結ばれていることから、人や物資が行き交う土地であった。
そんな土地で育ったということと、もうひとつは学生ボランティアとして、またその後職員としてかかわったYMCAの活動で、さらに近江の地とびわ湖への結びつきが身近なものになった。日野川の河口近く、近江八幡市佐波江の湖畔にYMCAの教育キャンプ場があり、大学四年間の夏休みはほぼ全てそこで過ごしていた。京都からやってくる子どもたちと生活を共にしながら、水泳、カヌー、カッターなどの指導をし、また裏方として施設管理、食事提供などの仕事もした。
子どもたちの賑やかな声が出始める前の早朝にひとりで浜に出て澄んだ空気を吸い込みながら、目の前に広がる湖面と対岸の比良の山々や、空を見上げるのは大好きだった。そんなシーンは今思い出しても清々しく、頭のなかに鮮明にイメージが広がる。
YMCAに就職してからは草津に配属となり、京都から通う生活を三年間過ごした。ここで担当した「こどもたちの自然体験活動」が、「環境教育」というテーマと出会い、いまそれを十年ものあいだ専業の仕事としていく大きなきっかけ、原動力となっている。
びわ湖とそれにつらなる川、田園や比良の山々などのフィールドとの出会いや、そこでのさまざまな遊びの体験が、子どもたちにとって人と自然への感性や考える力、生きる力を育んでいく、かけがえのないものであることを考えさせられる機会となったのである。
いまもびわ湖は「こどもたちの成長の栄養素」として、さまざまな体験と学びをもたらしてくれている。このかけがえのない自然の営みが、いつまでも私たちを育みつづけてくれることを願っている。
(「長浜みーな」・巻頭エッセイ)
■ヨセミテから
ヨセミテ国立公園、壮大な渓谷を見下ろすイーグルピークの頂に一人きりでいる。話す相手といえば、ぽっかり浮かんでいる雲と、岩の陰から時折顔を出す小さなトカゲくらい。自分がたてる音以外、ほとんどなにも聞こえない。渓谷の底をひとりで朝7時に出発してここまで約5時間、約千メートルの標高差を登ってきた。途中にすれ違ったのはわずか5人だけ。
この世のことからすべて離れて、ひとり大自然と向かい合う。目の前には何万年という単位で氷河作用によってつくりあげられた標高差約千メートルの巨大な渓谷が広がっている。
自分はといえばTシャツと短パン一枚きり。デイパックに簡単なランチと水を入れ、ここまで自分の足だけで登ってきた。でも費やした時間も、もっているものもこの大自然とは較べようもない。自分がほんとうに小さな時間のなかで生きているということを思い知らされる。ここは地球的時間の流れにふれあえるところだ。
自分がこんなところにいることは5年前には想像もしなかった。
■一人になる
5年前まである団体の職員として働いていて、毎月給料をもらって、毎年同じ仕事を繰り返していた。「環境教育」というキーワードに引き寄せられ、思い切って勤めを辞め、さまざまな人たちとの出会いに導かれて「環境共育事務所カラーズ」を開いた。アメリカの自然保護運動のふるさとヨセミテを毎年訪れるようになったのもそんな縁のひとつからだ。
一人きりになって目の前にある自然と向かい合うことはとても大切なこと。それは「わたし自身」についても多くのことを気づかせてくれる。イーグルピークまでの険しい道のりと一人きりの時間はそんなすばらしいものだった。
ふりかえってみればこの5年間は「自分さがし」の連続だった。自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。自分の関心事や問題意識は何で、自分には何ができるのか。自分はいままでなにをしてきたのか。どんな人たちとつながって生きてきたのか。そんなことを一つ一つ明らかにしていくことで新しい出会いがあり、それはすなわち自分への報酬をともなう「仕事」につながることであった。逆にいえば組織や資格・肩書で働いているわけではないので、それらを分かりやすく提示していかないといけない必要性があったのだ。そうしていまでは「自然体験」「市民参加型まちづくり」「教材・報告書の編集」「エコツアー」「リーダーシップ養成」「人間関係」などさまざまなものが「仕事」としてやってくるようになった。これまではだれも「仕事」としてやってこなかった分野を、「プロの技能」と「普通の市民感覚」の両方をあわせもちながらすすめてきたと思っている。
■人と人の関係をみる、結ぶ
事務所の名前には当て字で「共育」と書き「共に育つ」「共に育む」という意味をもたせている。このなかで大事なことは「人と人の関係をみる、結ぶ」ということ。はじめて出会う人やさまざまな期待をもって集まる人同士を出会わせ、刺激しあい学びあう関係をつくりだしていくということだ。このプロセスをみていくことが「環境共育」の場をつくるうえでの重要な要素となっている。以前働いていた団体で青少年への援助的なかかわりを実践してきたこともこのことに大きく関係している。植物やキノコや動物やゴミの専門家でもないのに、どうやって学びの場をつくりだしているのかという秘密は、じつはこのあたりにある。人間形成から自然体験、市民参加型まちづくりまで幅広い学びの場づくりを実践してきて、環境へのただしい視点や感性を育み、自立した市民とそのつながりをつくることの大切さをますます身に染みて感じるようになった。
■受け継いできたもの
「カラーズ」は「Colors of Nature」つまり自然の色。自宅からほど近い東山の山々や通りの街路樹が季節の訪れと深まりのなかで次々とその色を変えていく。足元にある身近な自然にもひとつひとつ「いのち」が吹き込まれているというシンボルがその「色」だと思っている。こんなことにも心を寄せていくゆとりと感性が私たちの暮らしには欠かせない。私のすむまち京都はもともとそんな「旬」を大切にするまちだ。季節のいちばんおいしいところ、輝いているところをその時期真正面にもってくる。京野菜、漬物、魚、筍、、。四季折々の暮らし方、遊び方。もういちどこんな「生活の伝統」にたちかえってみることもいい。私たちの先祖がこの列島に定住してどれくらいになるのか知らないが、ここで営まれてきた暮らしはこの列島の風土と深いかかわりをもっている。わたしたちが先祖から受け継いできたものはいったいなになのか。きっとDNAに書き込まれているような記憶を再発見していくようなことが次の時代の日本型環境教育をつくっていくうえで大切な要素だと思う。(つまりここでもまた「自分さがし」なのだ)
わたしたちはみな「地球のこども」であり、地域に支えられ、地球に支えられて生きている。そしていつまでもこの営みが続けられるためには、ふんわりと、そしてしなやかにこの母なる大地の上で生きていくすべを受け継ぎ、わかちあっていくことが必要なのだ。
■進む道がみえてくる
ヨセミテでも、京都でも、自然と人間にかかわりながら、自分をさがして、自分らしい生き方がわかりかけてきた。自分の中心軸がみえてきた。
いまは政治も、経済も、教育も、地球環境も先行き不透明。だからこそ内なるものに目を向け、耳を傾ければ進む道がみえてくる。自然にかかわるということは、狂気から一歩退いて、自分の平常心を取り戻すこと。一人になることを恐れずに、むしろ楽しんでみるとほんとうにたくさんのことがみえてくるのだ。
「環境共育」を旗印・テーマにして、家族とともに5年間生きてきた。いまだに「え、それが本業ですか?」と聞かれるが、こうして生きてきたのだから「そうです」というしかない。こんなヘンテコな人間を干上がらせずに生かしておくなんて、この社会も捨てたものではないと思う。みなさんに役立つ限りは、たぶんこの仕事、こんな生き方を続けているだろう。好きなところへ行き、楽しそうな人に会い、いい仕事をして喜んでもらいたい。この文章を読んでいただいているあなたとも、いつか、どこかで、ご一緒できますことを。
(1998年に書いた文章です)